娘が3歳を過ぎてから、ほんの1か月前の娘と今日の娘が確実に変わって見えます。
朝起きて、食パンにいちごジャムを塗って半分に折ったものか、好きなキャラクターの描かれたふりかけを「どれにしようかな」と選んでごはんにかけたものと、オムレツもしくは出汁巻き玉子、ゆでブロッコリーを食べて保育園へ行く。保育園でよく遊びよく食べよく笑って帰宅して、夕食を一緒に食べ、デザートのヨーグルトに「はちみつ、もっとおかわり」と味わって、お風呂に入って歌をうたい、セミダブルのベッドに入って、図書館で借りてきた絵本を読んで一緒に眠る。
そんな毎日の繰り返しですが、重ねられた1日1日は娘をどんどん成長させて、大きくしているようです。対して、大人である私は1か月前も半年前も1年前からも、何も変わらず。一番近くで生活している娘との差、もはや同じ生き物とは思えません。
娘と日常生活を過ごしていると、娘が独立した別個体の人間になったのだと感じることがあります。
もちろん、娘は生まれた瞬間から私の分身なんかではなく別の個体でした。ですが、眠ることも食べることも、すべてにおいて私の介助を求めるだけでなく、その口と鼻はとてもちいさく、私の指一本で塞ぐことも容易いような、か弱き存在でした。
生まれたばかりの娘の世界は、まだまだ小さな空間で、すべてが私で満ちていたはずです。その娘がいつの間にか、どんどん私の手を必要としなくなって「甘える」「いじける」「泣く」なんてこともコントロールしたり、頭と心の連鎖運動を行ったりして、つよく逞しくなりました。
娘との2人暮らし。大人1名、子ども1名の生活。
近ごろ、大人は私だけなのに、ふともう一人の「大人」の存在や気配を感じる瞬間が増えてきました。
いつの間にか、脱いだパジャマがきれいに畳まれていること。
ごはんが出来上がるころに、食卓を片付けて整えること。
出かける時間が近づくと、テレビを消してリモコンをしまうこと。
日常生活の中で人間の習慣に染まっていくシーンを目にするたびに、娘が狭くなった空間を飛び出す未来を想ったりします。
けれど、あんまり染まりすぎてしまったり、狭くても純粋で無垢だった空間の透明さを失くしたりしてしまわないようにとも願わずにはいられない、つくづく親心は忙しいなと思う3年目です。